犬島の歴史と≪犬島精錬所美術館≫が出来たわけ

直島・豊島と同じく、ベネッセの「在るものを活かし、ないものを創る」という構想によって生まれ変わった犬島は、世界各国から観光客が訪れるアートの島として知られています。

そんな犬島で一番有名な観光スポットが「犬島精錬所美術館」。

犬島精錬所美術館

見どころ満載の美術館で、ただ鑑賞するだけでも十分楽しめます。

でも、あえて「古びた精錬所」を「美術館」にしたのは、犬島の歴史を知った上で作品を楽しんでもらいたいという願いがあったからだと思います。

予備知識があればもっと楽しめるはず。犬島の歴史、アートのモチーフ、そして犬島の今について考えてみます。

行く前に知っておきたい犬島の歴史

他の瀬戸内の島がそうであるように、昔は海賊の拠点だった犬島。たびたび往来・停泊する船を襲撃していました。

その後、江戸時代から1900年前後にかけては採石が盛んに行われ、最盛期には5,000人もの人が島に滞在。

その間に、なんと東京ドーム4個分以上の石材が搬出されたというから驚き。犬島はなだらかな平地の島というイメージがありますが、昔は急坂が多く、今と全く異なる地形をしていたみたいです。

採石から精錬へ

採石によってたくさんの人が往来した犬島ですが、徐々に採石が下火に。

そんな中、1909年に帯江銅山の銅精錬所が犬島に開設。

「なんで小さな島に精錬所が?」って思いますが、岡山県倉敷市にあった帯江銅山の精錬所が公害問題の対策として移設されたきたのです。

帯江銅山は明治初頭から銅鉱石の採掘が盛んに行われていた場所です。一部の鉱区を三菱合資会社が買収。それを坂本合資会社に売却し、鉱山の開発が拡大。

しかし拡大にあわせて環境被害も深刻化。足尾鉱毒事件をきっかけに世論の公害反対運動が激化したこともあって、倉敷市から犬島に移設されました。

「とりあえず都市部から離れた島に」という理由で犬島へ移ってきたわけです。

その後、坂本合資会社は鉱区と精錬所を藤田組に売却。藤田組は精錬所をさらに拡張し、それによって島は活気に溢れ、精錬所の周りには飲食店が立ち並んだようです。採石が盛んだった頃のように、人口が5,000人くらいまで増加します。

しかし、第一次世界大戦の終息によって1919年に銅の価格が暴落し、操業を停止。1924年に住友合資会社が買収するも再建ができず、1925年に完全に廃止となりました。

島が受けたダメージ

「結局、だれの持ち物?」ってくらい所有者がころころ変わりながら、精錬所が実際に稼働していたのは「たった10年」という短さ。

でも、その短期間に島は大きなダメージを受けました。

銅の精錬によって発生する亜硫酸ガスは、植物を枯らし、山を禿山にする毒煙です。もちろん、人体にも影響があり、ぜん息・気管支炎などの症状を訴える人が続出。

これは直島とまったく同じ状況です。

1919年、財政に苦しんだ直島は三菱合資会社の銅製錬所を受け入れます。製錬所が操業を開始することによって島の財政は潤ったものの、犬島と同じく煙害に悩まされ、草木が枯れ果てています。

三菱合資会社は今の三菱マテリアルのこと。直島の北側にある銅製錬・金製錬の企業です。犬島に運ばれる銅鉱石の採掘が行われる帯江銅山を最初に持っていたのも三菱合資会社。そして、豊島の産業廃棄物をリサイクル処理しているのもこの会社。

色々な繋がりがあります。

ちなみに、「製錬」は鉱石から金属を取り出すプロセスを意味し、「精錬」は金属を純度を高めることを指すそうです。犬島にあるのは「犬島”精錬”所美術館」、直島にあるのは「直島”製錬”所」。

二硫化炭素と香料

精錬所が廃止された後、1935年に二硫化炭素を生産する日本硫黄株式会社岡山工場が犬ノ島で操業を開始します。

犬の島

福島県から犬島に従業員が移住し、島はまた活気立ちますが、1967年に工場が停止。

翌1968年、跡地に曽田香料株式会社岡山工場が建ち、従業員を引き続き雇用しますが、この頃には人口が750人程度まで減少しています。

曽田香料株式会社は今も存在する会社で、現在の犬ノ島には子会社の岡山化学工業岡山工場があります。

映画のロケ地として利用

この時期の犬島は、映画のロケ地として活用されることも多くなります。

1984年:「西部警察」(石原プロ)
1985年:「匂いガラス」(唐十郎)
1997年:「カンゾー先生」(今村昌平)
2003年:「鉄人28号」(富樫森)

西部警察なんかは爆破ロケでやりたい放題大暴れだったみたいです。(「西部警察 犬島」で画像検索してみてください)

爆破ロケができるぐらいですから、人口もさらに減っていて、2003年には70人ほど。

採石・精錬で栄えた犬島ですが、年を経るごとにどんどん衰退していきました。

犬島の今

犬島が新たな光を見出したのは、2000年頃。1997年に、芸大生が石像の製作を行ったり、2002年に開催された犬島アーツフェスティバルの舞台「カンカラ」で4,000人を動員したり、徐々に芸術活動が盛んになっていきます。

1998年に直島家プロジェクトを発足させたベネッセは、直島から瀬戸内の島々に活動を広げることを模索。その中で、2001年に犬島精錬所の跡地を取得します。

福武さん(ベネッセ)がこの土地を購入したのは、精錬所の跡地に「医療廃棄物の処理場」を建設する予定があったから。犬島が産廃問題に苦しむ豊島のようになることを防ぎたかったわけです。

その後、2008年に犬島精錬所美術館が完成し、瀬戸内国際芸術祭2010が開催された年に「犬島家プロジェクト」が始動。

瀬戸芸によって8万人以上の人が犬島に訪れ、島の活気がよみがえることになります。

犬島精錬所美術館が伝えるもの

犬島精錬所美術館の紹介でよく聞く言葉は「保存」と「再生」。精錬所の建物だけではなく、「歴史の変遷そのもの」を保存し、「新たな文化・時代」を育む土台になることを目指しているんだと思います。

建築としての精錬所美術館

外観はレンガ造りの工場跡をそのまま活かし、綺麗に整えられただけ。上から見ると、ジブリの作品に出てきそうな雰囲気が漂っています。

煙突

近代化を支えた精錬所の外観をそのまま残すことで、「人工物が自然に埋もれる様」が表現されています。

一方で建築は自然エネルギーを利用したエコな建物。直島ホールも手掛けた三分一博志さんが設計していて、静かで快適な空間が広がります。

精錬所美術館のアート

建物の中には柳幸典さんが演出する6つのアートスペースが展開されています。柳さんは作品に「蟻」を使ったりするユニークな現代芸術家です。

そんな柳さんが精錬所美術館に設置する作品のモチーフに選んだのは「三島由紀夫」。

三島由紀夫は大正の終わりに産まれた日本文学界を代表する作家。満年齢が昭和の年数と一致するため、歴史の出来事と照らし合わせて語られることが多く、昭和を象徴する人物とされています。

エリート一家に生まれた三島由紀夫は、幼い時から文学に長け、若干16歳という若さで文芸界に衝撃を与える小説を書きあげます。

20歳の時に終戦を迎え、激動の時代を生きながらも、「同性愛」「純愛物語」「愛と転生」などをテーマにした小説を次々に発表し、世の中に大きな影響を及ぼしました。

作品全般の特徴と言われる「卓越した美しい日本語力」に表れているように、三島由紀夫は古き良き日本の文化を愛し、反対に戦後日本の急速な近代化・西洋化を危惧していました。

そして、昭和45年(1970年)に事件が起こります。

マクドナルド第1号店が銀座にOPENしたこの年、三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを促す演説をした後、切腹自殺します。

これは「三島事件」と呼ばれ、繁栄に湧き上がる日本人を震撼させました。

近代化の犠牲と未来への再生

豊かさと引き換えに環境が破壊された犬島。近代化に警鐘を鳴らしながら、自殺に追い込まれた三島由紀夫。

「犬島」も「三島由紀夫」も、戦後日本における近代化の犠牲といえるかもしれません。

犬島精錬所美術館はその2つの物事を重ね合わせ、今に向き合う機会を与えてくれます。

戦争を経験した人も少なくなり、未来への期待も薄れつつある今だからこそ、犬島精錬所美術館の訴えを改めて考え直すことが求められています。

純粋に島の美しい風景とアートを楽しみつつ、少しだけ犬島が伝えるメッセージに耳を傾けてみると、さらに犬島観光が面白いものになるかもしれません。